昭和五十六年十一月二日 朝の御理解


御理解第七十一説


ここへは信心の稽古をしに来るのであるよく稽古をしに来るのであるよく稽古をして帰れ夜夜中どう云う事が無いとも限らぬおかげは我が家で受けよ子供があるものや日傭取は出て来る に行かぬ病人があったりすれば捨てておいて参ってくる事は出来ぬ壮健な時にここへ参って信心の稽古をしておけ


 論語読みの論語知らずという事がありますね、いろんな学問を例えば身につけましても、それが実際に役に立たなかったら何にもならんというわけでしょう。論語よみの論語知らず。信心もそうです。詳しゅうなっただけじゃでけん。云うなら合楽理念をマスターしました。と云うただけじゃそりゃあマスターしなければなりません。覚えなきゃなりません勉強しなけりあならん。けどもその習うた事がね実際日々の生活の中に生き生きとまあ生きづいておる信心。お役にたたなければ値打ちはない。ねこここそこういう事こそ日頃の信心にもの云わせる、いわゆる合楽理念にはこういう時にはどうあらねばならんかどう説いてあるかという事を思うて、それを実験していかなければ実証は生まれない。
 その実証そのものが力になるのです。ねここには信心の稽古に来る所とこうおっしゃっておられます。ねですからここでお話を頂くという事、こりあまあ信心の稽古でありまあ朝参りをさして貰うね、御祈念をさしてもらうやっぱり信心の稽古です。一番最後にも「壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけ」とね。一番始めにも、「ここへは信心の稽古に来るのである」とこうおっしゃっておられます。ね だから信心の稽古をしっかりしておかなければ、いうなら勉強もしなけりぁならないとこう云うわけです。私はですね合楽で頂かれるみ教というものは、まあ勉強だと思います。こりぁ合楽数学です。それも、もう今まで何と云うでしょうかね。まあ前人未到という言葉がありますよね。今まで誰もここん所に触れる事が出けなかったと云うようなお話を頂くでしょう。ね こりあ私が大体あんまり人の事を云う、そのとやかく悪口を云うたりするのを好かんのだけれどもだんだん本当な事が分かってくれば分かってくる程、なら過去数千年の宗教のね本当なもんじぁないかちゅう事が分かってくるですからそれを皆さんに分かって貰わんと皆さんの助かりにならないわけです。
 ね 例えば釈迦の説く例えば慈悲心というかね、キリストが説く愛の心となる程すばらしいですけれども、ならその事をね神様は昨日も月次祭にもうしましたように、丁度あのう煙草を一服するような程度のしか効果はなかったとおっしゃる。ですから、そげなこつ今までかつての宗教が云うてきたでしょうか。そりあねもう邪道だとか、たとえば日蓮なんかはずいぶん他の宗教をまあ批難しましたですね。もうこてこてにやりつけると云うたような事をしたけれども、どうもそこにその実際の理と理論が一致しない。所が昨日の研修の時に、とにかくなら慈悲心が悪いのでも愛の心が悪いのでもないけれども、それでは人間の本当の助かりにあならない証拠に慈悲心では因縁を切る事やら輪回をどうとすると云う事は出来ないじぁなかったかと。ね ならいくら愛というてもです、ねなら原罪を消す事は出けなかっちじゃないか。罪を、罪は罪で一生それを背負う手その修業をそのものがあの世で云うなら天国に住むとか極楽に行けるというふうな説き方しかしなかったでしょう。ね金光大神は、ね又金光大神の教えを合楽理念をもって説くとそうではない。ね この世で極楽でいつとかなきゃあの世に極楽はないち。この世でこの魂が極楽に行つとかずしてあの世で極楽、もうあの世でと云うようなことが出来るはずがない。魂の世界だ門。この世で魂が助かっとかな。なら魂が助かったようにあって助かっとらん証拠にですね、どういう事になるですか、助かりに繁ってない。ね金光教で云う、云うならば我が心には必ずおかげが伴うというのです。ね治らん病気が治ったり開けんはずの道が開けたりとこう言う。ねそれをならお互いはまあ実験実証さして頂いとるわけなんです。ね はあ成程過去の宗教というのは心が救われるとね例えば般若心経なんかをずうってとこうまあ観音経やらを したりして写経です、いわゆる。ねそれで心が鎮まるとか助かるとか極楽行きの手立てともまあ思うたりしてきたわけでしょうけれどもですね。なら自分の心がそのお経ならお経をよんでいく中に心が落ち着いて、心が助かるですね。だから丁度煙草を一服してやれやれとこう心が安らぐのとあんまり変わらないわけ。その安らいだ心に病気が治りましたとかお金に不自由せんごつなりましたというものが伴うとらんもん。だからおかげはもうあの世でいくより他はないという程度にしか説いてないでしょう。ねですからね、和賀心は人間の幸福の条件の総てがこれにはもうおかげの方がこれに寄って来るんだ集まって来るんだと教祖は説いちゃる。ならそれ、その和賀心というのは大変な難しい事だと致しましてです、けれども本気で和賀心にならうと教に基づいて実験実証し、和賀心になれておらんのであっても、云うならおかげが伴うでしょうが。ね結局慈悲心にでも愛の心にでも云うならば和賀心というものがその根底にあるものでなからなければならない。もし宗教がこのまま生き続けるとするならばどうでも他の宗教の総てに教祖金光大神の信心をそれに教えてあげねばいけない。まあ大変な事なんですけれどもそんなふうに私は思い又そう信ずるです。
神様からおしらせを頂いたのであるから私はそれを信ずるです。親先生が大きなこつばっかりいいなさるというても、その私が云う大きな事をです自分のものになるならんは別として私が云う事を信じなければいけんのです。ただ一通り覚えただけでそれを実験実証しないです。ねそれを信ずる所から実験が生まれ実証が生まれ、それが積みに積み重ねて力となるのです。ね 例えば慈悲の心の強い人その人自体がもう助かっておる感じですね。愛の心の強い人は、本当にこう人を愛せれるというどんな人でも愛せれるという事はすばらしい事だから。愛される方もありがたいなら愛する方も助かってるわけです。ねけれどもそれが人間の云うなら幸福というものがただ心だけが助かればよいと云うのならそれでよいかもしれんけれども、ねそれに人間の幸福の条件がまあ一切足ろうてこなければ人間の幸福とは本当は云えません。ね、そういう意味でねう本当にあのう昨日からもうしております天地書付の御精神といものを体得して分かって、それをね自分の物にしていく実験がなされなければいわゆる論語読みの論語しらず、そういう今までかつてこういう話聞いた事もないというような話を聞いてもです、ただ詳しゆうなるだけであってねそれではつまらん事になります。ここには信心の稽古にくる所であると同時に、稽古したその、なら合楽教学を勉強して、その合楽教学がそれぞれの生活の場でです、生活の現場で生き生きと役に立たなければねそこでならここには信心の稽古に来る所という稽古を本当にこう実際問題と取り組んで、まあ云うなら学校にでまあ高校大学というふうにこう出ますね。学問を身につけます。その学問が実社会に出て役に立たなかったら学問も何にもならんでしょうが。ねやっぱ大学でじゃあるというように、大学出らなければ出けない御用でも出けるような云うならば学問と実際とが合致して行かなきぁいけない。信心もそうです。だからもうここでこそ力を受ける稽古である。ここでこそ本当の事が分かる云うならば安心のおかげを目指していくらならばその都度その都度にせめて安全感位は出けなければねその安全感がつのりつのって云うならば安心というようなまあ信心の究極の所そこでしょうけどね、まあ云うなら安心立命のおかげが頂けれる。それには云うなら積みに積み上げていく実験実証が出けてはじめて道理が分かり理屈が分かったから安心がいくのぢゃないです。ねただ勉強の上でいろんな事が詳しく分かってから安心する。出けるという事は先ずないと思うです。ね例えば一切神愛と云われてもです。成る程親愛だなあと云う事をその実験実証によって親愛を実感さしてもらう時に、はじめてもう一切神愛として頂けれる時にもう私は安心立命というふうに思うです。ねさまざまに難儀な事があります。心にひっかかる事があります。ちょっとした事がひっかかってひっかかってしょうがない事があります。それを合楽理念を持ってそれをそのひっかかる事を信心の稽古の材料としてそれを頂いていく時に 然として心がすきっとするという事があるでしょうが。ねそして本当にお礼もうしあげねばならん事にこんな事でくよくわよしておったりね 心にひっかかって何か心が重苦しかったり、とだからその重く苦しいとそのまま放っておいたら信心は、教は役に立たんわけでしょう。その難儀を感ずるなら、その難儀を感じむしろお礼が云えれる神愛としてお礼が云えける所まで云うならば合楽理念をもって稽古させて頂かねば、ね私は今日はその論語読みの論語知らずという事を頂いて今日はどういうご理解を頂くじぁらうかと思うたらここなんですよ。
今日ここのご理解いわゆる稽古に始まって稽古に終わるといったような感じのご理解でしょう。
 ここへは信心の稽古に来る所、一番最後に壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけとおっしゃるように稽古かけ稽古、ねだからなら稽古をさして頂いたというかいわゆる学んだというか、ここで勉強した事をそれをそのまままあぎこちないけれどもそれを実験してみるの帰って。ね なかなか一ぺんにすきっと頂けないけれども、繰り返し繰り返しそれを稽古させて頂きよる中にすっきりとしたものになって心に安らぎ、心に喜びが湧いてくるよう。それが云うならば又おかげを呼ぶ事になる。いわゆる和賀心はそのようにしてだんだん出けていくもんだというふうに思います。
 お互いどうぞ論語読みの論語、合楽にはですね 大変詳しくなるわけですね。だから詳しくなって頂かにあいけませんです。例えば本当にあいすまん表現ですけれどももうそれこそ過去の宗教というものはもうこれは絶対人間が本当に人間が人間らしゅう助かっていくという事ではものではないという事。
 それをなら昨夜の言葉で云うとあれはただ煙草を一服するようなもんだと。だからそれがその沢山飲むようになると弊害すらあるんだと。それを信心の無い人達は宗教は阿庁なりと云うような事をまあ云った悪口を云ったわけですけれども、あながちそれは悪にじゃない本当な事で昨日の御理解頂くと本当という事になるわけですやっぱ。そこでなら合楽による所合楽理念による所の和賀心の追求ねいわゆるその理論の上でも合楽理念といわれるのですからその理念を覚えてそれを実験実証していわゆる間違いないものを積み上げていくという、しかもそれがね募っていく所にまあ安心のおかげも頂けれるようにもなる。
 けどもそこん所までの過程がね難儀を感じたりひっかかったりする。心にひっかかるような事があるけれどもそのを放っておかずに、それを合落理念で説いていく合楽理念でおかげにしていく。そこん所を私は今日はね論語を習うたその論語が役に立ったと。論語だけは読めるけどもねそれを実行に移さなかったら論語読みの論語知らずになる。
 信心は頂いとっても合楽理念は詳しくなってもそれを実験実証していかなかったら結局論語よみの論語知らずという事にもなりかねないわけですから、ね私は言葉をそのどう表現し昨日、今日頂いとる事をねまあだいろいろあるんですけれども表現のしょうがないとです。
 だから私の心だけがもやもやしてるという感じです。こういうすばらしい事、こういう事を神様が私に教えて下さるんだねだから私が教えて頂いたんだからここに御縁のある信者の皆さんにも一人一人これと同じように分かって貰いたいというもどかしさがあるんですけどね皆さんお話を聞いとってそんなふうに感じるでしょう。
 先生が何か本当にあのうもどかしそうに例えば今日のお話なんかはしておられると思うでしょう。だから皆さんがね私の云う事を問題は信じて下さいという事です。本当に金光教はそんなにすばらしいんだ。合楽はそんなにすばらしいんだと、ねそういうすばらしい信心を今習っておるんだと、だからすばらしいおかげがともなわないはずはないという確信に満ちた云うなら日々をね、過ごせれるようなおかげを頂いて頂きたいと思います。     どうぞ